親の働く姿、汗水流している姿を見ていると、親に対しての感謝の気持ちを子どもは自然と育んでいくものです。大人が夢やこれからを語らないで、人生がいかにすばらしいものかということを語らないで、子どもたちがこれからの人生に夢を持つことができるのでしょうか。
3K、きつい、汚い、危険、そういう仕事をしてくれる人がいるから、自分たちは快適に暮らしていける自分たちは、感謝の気持ちをもって接していかなくてはいけないことを少しなおざりにし過ぎていないでしょうか。もしかすると、反対にそういう人たちをバカにしているところはないか考えてみなければなりません。どんな仕事の人たちも、社会にとって必要であり、その仕事に誇りを持って活動し、自信をもって夢を語ってもらうことが子どもには必要なのです。
しかし現在は、目に見えるものだけを大事にし過ぎているような気がしてなりません。能率、効率、費用対効果等々。人が尺度に入らず費用だけが論じられているようで悲しいです。大人は子どもたちを使命感を持って指導する、志を共有する組織づくりをする、子どもが群れる場をつくっていくのです。そして、子どものよいところを見つけ出して、そこに光を当てるのです。そのことを通して、その子の欠点を目立たなくすることで、自信を持って日々生活するようになるのではないでしょうか。
2013年11月27日(水)
求められる人材の育成に向けて
日本社会は、いろいろな病巣にかかっていると言っていい現状にあります。小・中・高・大学でどんな人材を育てようとしているのか保護者をはじめ多くの国民が不安を感じていることです。お年寄りからお金をだまし取ったりする人、中山間地の農業をどういう形で残していくのか、災害を起こさないために山や田んぼの手入れをどう確保するのか明確なビジョンもないまま外国と同じように大規模化、効率化できる農業の育成に舵を切る霞ヶ関の官僚の方々、グローバル化の名のもと狩猟的民族のまねごとをすることで経済が潤うと考える人たち、人の心の痛みを感じることのできない政治家の多いこと、大学を卒業した時、どんな人材が育っているのかちょっと立ち止まってみんなで考えてみたいものです。
小・中・高・大学と学年が進むにつれて専門化の方向で学習内容が絞られていっています。本来急激に変化する社会に対応するには、幅広い分野にわたる普遍的な知識を深く習得し、状況に応じて適切な判断ができる多角的な視点を身につける必要があると思うのですが、現状は逆方向に進んでいると言わざるを得ません。
大学を卒業しても日本語、英語、そして、もう一つの外国語を使うこともできない学習内容で本当にいいのでしょうか。日本の学校では、知の鎖国が続いているのではないでしょうか。異文化理解が進むことで世界平和がもたらされるとするならば、人種・民族・国籍・性別の一切を気にすることなく自由な知的コミュニティーに学校をすべきではないでしょうか。国際社会と地域社会に貢献することのできる実践力のある人材を養成してほしいものです。