個人主義はさまざまな経緯を踏みつつ、キリスト教を背景として完成したものです。キリスト教は一神教です。個室にいるときでも神は常に見ておられるので、己を厳しく律することになるのです。これがキリスト教道徳の根本であるのです。神を失った時、その個人主義は利己主義に変質してしまうのです。
戦後アメリカより民主主義の考えが入ってきた時、日本にあった神道の教えも否定したがために今日のような利己主義の考えが大手を振ってのし歩くようになったのではないでしょうか。
二宮尊徳のことばに、「人 生まれて学ばざれば、生まれざると同じ、学んで道を知らざれば、学ばざると同じ、知って行うこと能(あた)はざれば、知らざると同じ」とあります。道徳、道とは人間の本来あるべき姿のことなのです。以前はおじいさんが子どもに「お天道様が見てござるよ。悪いことはできないよ」と諭していました。神様が常に見ておられると教えられていたのです。自分勝手では人間関係を狭めてしまいます。おかげさまでと感謝しながら日々を過ごしていきたいものです。
何かを大きく変えようとするよりは、一人ひとりが小さく変わったほうが世の中は早くよくなります。一人の100歩より、100人の1歩を実践することで、世の中は大きく変わるのではないでしょうか。
将来への夢が描けない、勤労への意欲が低い、自ら進んで人と交流することができない等、青少年のいろいろな課題が取り上げられ、問題解決の取り組みがなされていますが、根本の部分への働きかけがされていないのではないかと危惧しています。
行動面や表面的なとらえ方で見ると、以前のような社会常識が身についていないと言われます。今の青少年は、教えられたり学習したりする経験の機会がなかったと見る方が妥当だと考えます。
大人が子どもに自分の背中を見せることができにくくなっています。働き方が大きく変化しています。家族や近所の人たちが協力し合って作業していたものが、会社で働き、家庭は休む場所になっています。働いている大人の姿を見ることができなくなってしまっているのです。
そのような社会状況の中で、どう大人が子ども達に関わっていけばいいのでしょうか。地域での活動や伝統文化伝承の活動に参加させることで、大人の今の姿を見ることができるのではないでしょうか。
ところが多くの場合、めんどくさい、わずらわしいという気持ちからか、大人でさえ地域での作業や活動にあまり参加していないのではないでしょうか。これらの大人への働きかけをせずして、他のどんな方策をとってみても、子どもの見ている大人の姿がモデルとなっているのです。
汗を流して働くのがあたり前、人の喜ぶ顔が見たくて仕事をしたり活動したりするのがあたり前という感覚を大人が取り戻すことなくして、子どもの姿を健全化できないのではないかと考えています。
