中国・四国大会遠征記

教三 田中裕子

 この大会は十月十七日より松山で行なわれました。

 私は、初めてAチームのメンバーになり、勝たなければならないというプレッシャーと厨子・原組の足を引っぱってばかりだったらどうしようという不安で、大会前は”試合に出たくない”と何度も思いました。しかし、弱気なことばかり言っていられません。とにかく幹部最後の大会なのだから、悔いの残らないようがんばろうと自分に言い聞かせて、試合に臨みました。

 団体戦、女子Aチームは、最初、岡山大学Dチームと対戦し、相手は一ペアだけで軽く勝ったものの、次の広文短Aチームとの対戦で、一番手田中・中村組、さほど強い相手でもないのにゲームカウント2-4で負け、ここで、早くも、厨子・原組の助けを借りることになりました。そして厨子・原組が難無く勝ってくれ、四回戦へ進むことができたのです。この時、私は、これから先のことを考えると、”もう鳥取へ帰りたい”と弱気になってしまいました。が、次にがんばればいいのだからと慰さめられ、四回戦、松商大Aチームの試合になりました。

 一番手田中・中村組、ゲームカウント4-2で勝ち、そして、二番手厨子・原組は、ファイナルゲーム3-Oでマッチを握りながら負けてしまったのです。この瞬間、私は目の前が真っ暗になり、ああどうしようと絶体絶命的な状態に落ち入りました。(皆様は、御想像できないかもしれませんが……)見ていると相手の前衛さんはすごいスマッシュを決めるし、後衛さんもよく走るしで、とても勝てる相手だとは思えませんでした。応援してくれていた人もたぷん私と同じように思っていたのでしょう。はげましてくれる言葉は、「捨て身でがんばれよ」とか「負けてもともとや」というものばかりでした。が、このように言ってもらえて、幾分、心が柔らぎました。とはいうもののやはり、プレッシャーは大きいです。

 雨のため、試合進行が悪く、この二次戦は、ナイターになったのですが、スポットライトの中で、自分がみじめな思いをするのかと思うといてもたってもいられませんでした。無残にも時間がたち、中村さんと「やるだけやろうね」ということばだけ交わし、みんなの応援に見守られて試合が始まりました。

 中村さんもひどく緊張している様子でしたし、私も足がガクガクでアッという間にニゲームとられてしまいました。でも、結果的にこのニゲームとられたのが良かったと思います。ここで開き直ったのかどうかわかりませんが、足が動き出し、私が続けて、チャンスボールを中村さんが決めてくれるというパターンで、ゲームカウント2-2に追いつき、ついにファイナルまで漕ぎ着けたのでした。私たち二人は、一本目を先取するということだけを頭においてファイナルゲームに臨みました。すると何となく一本目、二本目、三本目を連取でき4-Oで最終ゲームを飾ることができました。終わった時は、勝った喜びよりも、緊張感から解放された喜びの方が大きかったように思います。しかし、徐々に勝ったうれしさが、込み上げてきました。テニスを続けてきて、よかった、がんばってきた甲斐があったと心から思いました。

 このあと四本決めでは、広島大学Bチームを破った広文教Bチームとあたり2-0で勝ちベスト4へ入ることができました。そして準決勝では岡県短Aチームと対戦しましたが、歯がたたず2-Oで負けてしまいました。今まで、通っていたロブが通用せず、相手前衛のスマッシュボールになってしまったということが、私たちの敗因だったと思います。

 この遠征で感じたことは、後衛はとにかく辛抱強く続けなければいけないということです。統けていれば必らず前衛にチャンスポールがあがってくるのだということです。そして何よりも大切なのは、がむしゃらに最後まであきらめずにがんばることだと思いました。最後になりましたが、応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。

 尚、この大会の個人戦は雨のため途中で中止となりました。